八重とコラム
会津の偉人たち >> 鶴ヶ城を築いた人「蒲生氏郷」
会津の基盤を作った豊臣傘下の武将。弘化2(1556)年、六角氏の重臣である蒲生賢秀の嫡男として生まれます。
永禄11(1568)年、当時急速に勢力を伸ばしていた織田信長により、主家である六角氏は滅ぼされてしまいます。その際、蒲生家は織田傘下に入り、忠節を誓う証明として、氏郷は織田の下へ人質として預けられることになります。しかし氏郷の利発で誠実な才を信長は可愛がり、娘の冬姫と結婚させるなど、かなり厚遇しました。
天正10(1582)、明智光秀の謀反にあい、信長は本能寺でその生涯を閉じます。所謂「本能寺の変」です。その際に安土城から日野へ信長の妻子を保護し、さらに日野に光秀が攻めてきてもいいように準備を整えるなど、機敏に光秀に対抗する措置を取りました。その後は秀吉の傘下に入り、数々の戦で功を挙げています。
秀吉が小田原の北条氏を攻めた際に挙げた武功がもとで、天正18(1590年)会津を任され、近江から様々な職人を会津に呼び寄せて、会津に産業を根付かせました。また城下の区画整備や民衆の生活の安定などにも力を入れ、のちの戊辰戦争で1か月の籠城戦に耐え抜いた名城・鶴ヶ城の基礎を作りました。現在の会津に息づく伝統産業などは、ほとんどがこの氏郷の時代に発展していったものです。もともと「会津黒川」だった地名を「会津若松」に改めたのも氏郷です。
非常に家臣想いで、家臣のためにお風呂を焚いたり(当時お風呂は最高級のもてなしでした)、食事に招いたりしていました。文学や茶の湯などにも通じた風流人で、鶴ヶ城にある茶室「麟閣」は、利休七哲の筆頭に数えられる氏郷に、千利休の子・少庵が送ったといわれています。
そんな穏やかな人物かと思いきや「将は前線に立って戦い、兵たちを鼓舞すべし」という考え方の持ち主で、蒲生家の当主でありながら戦では常に最前線に立っていました。そのため、数々の武功も上げています。またキリシタン大名であり「レオ」という洗礼名を持っています。
文禄4(1595)年、伏見にある屋敷で死去します。現在会津若松市の興徳寺に、遺髪を埋めた墓があります。
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