八重とコラム
襄が八重を妻に選んだ意外な理由
会津藩士の娘として生まれ、類まれな鉄砲の腕を持っていた八重と、安中藩士の家に生まれ、アメリカに留学経験を持つ襄。
生まれも生き方も考え方も、全く違う2人。
そんな2人が、どうやって夫婦になったのでしょうか?
実は、襄が八重を妻に選んだ理由は、とっても意外な理由なのです。
ある日八重は、聖書を習うために宣教師であるゴードン氏の借家を訪ねていました。
同じ日、襄もゴードン氏の借家を訪れていましたが、靴を磨いている襄を見て、八重はゴードンの下男と勘違いし、挨拶をしませんでした。
後に「新島襄という男が来ている」と襄をゴードン氏に紹介されて、八重は初めて、自分が勘違いしたことに気づいたのです。
これが襄と八重の出会いでした。
後に襄は槙村参事官と話し合いをした際に「結婚する気があるのか?」という話になりました。
「日本人がいいのか、外国人がいいのか」と聞かれ「日本人」と答えた襄は「しかし夫が東を向けと言ったら、3年でも東を向いているような女性は嫌だ」と付け加えました。
槙村参事官は「実は女紅場への援助をたびたび求めに来る女性がいるのだが、彼女はどうだろう?」と、女性を紹介。
その女性こそ、八重だったのです。
そんな八重を襄が妻にしようと決めた出来事は、ある暑い夏の日のこと。
襄が覚馬を訪ねていくと、中庭で驚きの光景を目にしたのです。
その光景とは、八重が井戸の上に板戸を敷いて、その上に座って縫い物をしている姿でした。
暑い日だったので、井戸の上が涼しいのは襄もわかります。
しかし井戸の上ですから、落ちたり、万一板戸が割れたりすれば、八重は井戸の中に真っ逆さま。
かなり危険な状態です。
襄は覚馬に向かって「妹さんを注意しないのか?」と聞きましたが、覚馬は「妹はどうも危険なことをしていけない」と答えるだけで、注意もしませんでした。
そんな八重の姿に、自分が求める女性を見出したのか、襄と八重は、明治8(1875)年に婚約。
襄は、自分をしっかり持っている強い八重に、心惹かれたのかもしれません。
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