八重とコラム

会津女性列伝 >> 家老の妻として「西郷千重子」

会津若松市の善龍寺に「なよたけの碑」があります。これは戊辰戦争の際、足手まといにならぬように、後世に恥を残さぬようにと、自ら命を絶った200名以上の会津の女性たちの御霊を弔うために建てられたものです。
そこに刻まれている一つの句。

「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそ知れ」

西郷千重子 弱いなよ竹と同じように風に吹かれてしまう身だけれど、強風にも曲げられないなよ竹の節のように、私も節義に殉じてみせるという、強い意志と覚悟が感じられる句です。
これを詠んだのが、会津藩家老・西郷頼母の妻・西郷千重子です。
千重子は天保6(1835)年、会津藩士・飯沼粂之進の二女として生まれます。八重の友人である日向ユキの母・ちかは、彼女の姉にあたります。
慶應4(1868)年、戊辰戦争が起こります。早鐘が鳴らされた8月23日、千重子は夫・頼母と長男・吉十郎の入城を見送った後、親類一同を居間に集めました。
千重子は「子連れでは足手まといになりかねない。ここで自刃するのが国に殉じることだ」といい、まず幼い子供たちを刺してから自らも自害しました。享年34歳。子供たちの中には、まだ4歳や2歳の娘もいました。
同じ居間では西郷家の母や娘など、総勢21人が同時に自刃。
政府軍が西郷邸に乗り込んできたとき、まだひとりの少女に息がありました。彼女はもうろくに目も見えない様子で、政府軍の軍人に「あなたは敵か?味方か?」と問いかけ、憐れに思った軍人は「味方だ」と答えました。すると彼女は懐を探って懐剣を取出し「これで介錯をしてほしい」と言うので、介錯に応じてやったそうです。
その自刃の間の壮絶さと、少女の姿を見た軍人は「これが会津のもののふか」と敵ながら称賛したと言います。

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