八重とコラム

会津女性列伝 >> 女流文学者「若松賤子」

若松賤子 若松賤子は元治元(1864)年、会津藩隠密・松川正義の長女として生まれます。本名は生まれた干支に因んで「甲子」という名前で「若松賤子」はペンネームです。戊辰戦争後、横浜の証人である大川甚兵衛の養女となり、明治4(1871)年、メアリー・キダーの英語塾で学びました。メアリー・キダーの英語塾は、現在のフェリス女学院の基礎となり、当時からアメリカ式の教育を施していました。そこを卒業した後は、同校の教師として教壇に立ちます。

1886(明治19年)、故郷である「若松」と「神のしもべ」という意味を持つ「賤子」という名を組み合わせてペンネームを作り、「女学雑誌」に紀行文と詩を掲載。明治22(1889)年、フェリスに講演に来た巌本善治と結婚します。翌年から明治25(1882)年まで、女学雑誌で翻訳連載したバーネットの「小公子」は、翻訳家の森田思軒や「当世書生気質」が有名な坪内逍遥にも絶賛されました。また堪能な英語の腕を生かして、英文誌にも連載をするなど、明治という時代の中で女性の教育と立場の進化に力を注いだ、非常に新しい女性でした。
明治39(1896)年、以前から患っていた肺結核と心臓麻痺が原因で、31歳で亡くなります。

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