八重とコラム

日本トップの実力・会津藩校日新館

明治時代、会津藩士たちは敗軍という身分でありながら、様々な分野で名を残しています。
特に教育の分野においてはそれが目覚ましく、学校の教師や設立者、女性教育の点においても八重をはじめとした多くの女性たちが功績を残しています。
会津の人々がこういった素晴らしい功績を明治の世の中で残すことができたのは、会津の徹底した教育の賜物だと言われています。

江戸時代、各藩には「藩校」という藩士を育てるための学校がありました。
藩士の子供たちは、そこで藩士にふさわしい人間になるための教育を受けていたのです。
会津では「日新館」という藩校がそれに当たります。
もともと会津には「稽古堂」という、開かれた学校がありました。
この学校は武士だけでなく、農民や商人の子たちも学ぶことができました。
それが時代と共に姿を変え、五代藩主・松平容頌の時代に会津藩士の子供たちが学ぶ「日新館」となったのです。

日本トップの実力・会津藩校日新館では「日新館」とは、いったいどんな学校だったのでしょうか。
会津藩士の子供たちは、数え年10歳になったら日新館に入学します。
日新館では、主に儒教の教典を修める素読、弓・馬・槍・剣の武術が必須科目でした。
また素読所で優秀だった者は、講釈所というところに進学でき、さらにその中で優秀な者は、江戸に遊学に出ることができました。
他に選択制で専門科目を学ぶことができ、主に父親の仕事で選ぶ科目が違っていたようです。
専門科目には、以下のようなものがあります。

○礼式方
小笠原流の礼式を学びます。
配膳の作法といった日常生活のマナーから、首級実見といった武芸の作法まで幅広く学んでいました。

○数学方
主に関流算術を学びます。
砲術を学ぶ生徒が数学の原理を必要とするときに学ぶことがありましたが「算術は商いのもの」というイメージが会津藩の中にあったために、あまり人気はなかったようです。

○神道方
宗教の神道を学びます。
藩祖である保科正之が神道だったこともあり、採用されていました。
教科書を読んでの研究が主な授業です。
また幕府の神道方に万一のことがあった場合、会津藩が幕府の神事の後見人になると決められ、かなり重要なところだったようです。

○皇学方
律令格式を学びます。
皇室内部のことを勉強し、国を安んじるための方法などを研究していました。
神道方で神道を学んでいる生徒が、同時に学んでいることも多かったそうです。

○天文方
天文学を学びます。
会津藩では冬至の日、次の年の天候を読んで藩に提出しており、それを担っていたのがここの師範や諏訪神社の神官でした。
このため、日新館には天文台が備わっており、現在でも土台の部分だけ残っています。
ただ生徒数は少なく、師範は数学方と掛け持ちが多かったようです。

○雅楽方
音楽や舞楽を学びます。
大成殿の庭に舞台があり、音楽を奏で舞をしました。
幕末時は、かなり学ぶ人数が減少していたようです。

○開版方
書物を印刷するところで、実際に日新館で作られる教科書の印刷なども行っていました。
外注作業も請け負っていて、江戸からの注文なども多かったそうです。
また藩外販売も行っていたようです。

○和学所
和歌を学びます。師範の自宅で歌会を行うこともあり、和歌は武士のたしなみとして人気のある科目だったようです。

○医学寮
医学を学びます。医師の家系は、12歳になるとここに入ることが義務でした。
本道科、外科、小児科、痘瘡科、本草科、蘭学科、舎密科の7つの科がありました。
舎密科では、薬も作っていました。

武芸の場合は必須の4科目のほかに、砲術・大砲方、柔術、居合術、水練があり、特に水練で使った水練水馬池は、日本初のプールと言われています。
また簡単でしたが、給食が出た時代もあり、これも日本で初めての給食と言われています。
進級は完全実力主義。
家柄や生まれた順番など関係なしに、優秀で努力家な人間がどんどん上に行けたので、兄を弟が追い越してしまうということもざらにあったようです。
どんなに名家の家柄であっても、日新館を卒業できなければ家を継ぐことは許されませんでした。
15歳で素読の一等(最上級。500石以上の長男がクリアしなければならないレベル)をクリアした者の学力レベルは、現在の国立大学を卒業したくらいだと言われています。
このような教育を徹底して行っていた日新館は、大変優れた藩校として有名で、250ほどある藩校の中で名を轟かせていました。
八重の根底は、こういった教育のもとのもとにあったのかもしれません。

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