八重とコラム

会津女性列伝 >> 会津の厳しい女傑「山川艶」

西郷近登之の娘で、山川大蔵の母。歌が得意で「唐衣」という歌号を持っていたため、山川唐衣とも呼ばれます。尚江との間には12子をもうけますが、成人したのはその中の7人。尚江も早くに亡くなったため、山川家を背負って立とうという気概が強かったようです。夫の死後は勝聖院と号し、7人の子供たちを育て上げるために奮戦しました。子供たちの教育には非常に熱心で、太閤記や信長記などを夜に2時間ほど読んで聞かせ、また当時は教育を受けることの少なかった女の子たちにも勉強をさせたそうです。

山川艶 当時の女性は、何かあったときのために懐に懐剣を忍ばせておく習慣がありました。艶の短刀は袋が剣の長さしかなく、何かあればすぐに抜けるようになっていたそうです。「それが母の心掛けを示しているようだった」と、二男の健次郎が語っています。また変わったことが嫌いで、当たり前のことを真面目にやる反面、非常に厳格で、道に背いたことをした場合は容赦なく叱ったり、罰を与えたりしました。
後に陸軍大将になる柴五郎は、一時期山川家に居候をしていましたが、その時に自分たちの困窮も顧みず世話をしてくれた艶に、ずっと貯めていたお金を貸し出したと言います。

会津が「賊軍」と呼ばれた明治の世にあって名を時代に刻みつけた山川家の人々。陸軍少将・大蔵、東大総長・健次郎、日本人初の女子留学生・捨松、東京女子高等師範学校生徒取締・二葉。こういった人物を育て上げたのは間違いなく、女手ひとつで彼らに教育を施した母・艶だったのです。

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