八重とコラム

会津女性列伝 >> 鹿鳴館の花「大山捨松」

大山捨松 のち大山巌と結婚し「鹿鳴館の花」と呼ばれた会津藩出身の女性。大山捨松は、万延元(1860)年、山川尚江と艶夫妻の末っ子として生まれます。幼いころは「さき」と名付けられ、国家老の家柄で何一つ不自由せずに育ってきた捨松でしたが、慶應4(1868)年の戊辰戦争で、その生活は変わってしまいます。幼い身で籠城戦に参加した捨松は砲弾に飛びかかって火を消す仕事をしていましたが、これを手伝って大怪我をし、また兄・大蔵の妻であるとせは、この仕事が原因で命を落としています。

戊辰戦争が終わると、家族で斗南藩へ移住。このときに捨松は函館の沢辺琢磨のもとに里子に出され、その縁でフランス人夫婦の下で生活するようになります。
その経験からか西洋の文化に慣れ親しんでいた捨松は、11歳の時、岩倉使節団とともに渡米。女子を留学させるという文化は、当時では全く考えられないことで、このときに捨松の両親は「捨てるつもりで待つ」という意味を込めて、名を「捨松」と改名させました。
しかしアメリカでの捨松は非常に優秀でした。英語を習得し、名門校であるヴァッサー大学に入学。そこでの成績も非常に優秀だった上、洗練された美しさと知性を持つ捨松は、大変人気者でした。

帰国した捨松は大山巌から結婚の申し込みを受けます。しかし相手は、会津戦争で砲兵隊長を務めた男です。当然家族は猛反対しましたが、巌の熱意に負け結婚。できたばかりの鹿鳴館で結婚式を挙げ、以降捨松は日本人としては垢抜けた性格とセンスの良さで、鹿鳴館の花と呼ばれました。
それ以降は看護学校を作ったり、女子教育の充実を図ったりと、海外暮らしで得た知識と経験を発揮して、日本の女子教育や看護に貢献。日本の女性が社会に進出していくための基礎を作りました。
大正8(1919)年、58歳で死去します。

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