八重とコラム
会津女性列伝 >> 悲劇の会津女性「神保雪子」
会津藩大組物頭・井上丘隅の娘で、会津藩軍事奉行であった神保修理の妻。夫であった修理とは大変仲が良く、他人も羨むほどだったと言います。
慶應4(1868)年、戊辰戦争が起こると、鳥羽伏見の戦いで会津藩は敗北。もともと反戦派でずっと戦に反対していた修理は、会津藩士たちの怒りを背負って切腹に追い込まれてしまいます。会津での戦いになると、父である井上丘隅も幼少寄合組中隊頭として戦場に立って戦います。しかし新政府軍の圧倒的な力により敗北。会津が負けることを悟った丘隅が自宅に戻ると、そこには自刃の準備を済ませた一家の姿。その中には神保家へ嫁に行ったはずの雪子もいました。
丘隅は雪子に「神保家へ嫁に行ったからには、神保家と運命を共にせよ」と叱りつけて、家から出してしまいます。この直後に丘隅は家族と共に自刃。雪子は父に言われた通り嫁ぎ先へ戻ろうとしましたが、銃弾が飛び交っていて戻ることができず、中野竹子たちが女性だけで編成した「娘子隊」の一員となって城外の戦いに参加しました。
しかし途中、大垣藩兵に捕えられて捕虜となってしまいます。その後斬首にされる予定だった雪子を目にとめたのは、たまたま大垣藩の陣営に来ていた土佐藩の吉松速之助でした。もう戦の大勢は決したと見ていた速之助は、縛り上げられた雪子を見て「婦女子を殺しても無益だ。逃げなさい」と、雪子を逃がそうとします。しかし大垣藩兵はこれを許しませんでした。雪子は「腰のものを貸してほしい」と速之助から脇差を借り受け、それを使ってその場で自害。享年26歳。
会津藩士の娘として、妻として壮絶な最期を遂げた雪子の名は、現在善龍寺にある「なよたけの碑」に刻まれています。
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