八重とコラム

会津とお茶と八重

晩年の八重はお茶の世界に生き「宗竹」という茶名を持って、特に女性の間に裏千家を広めることに心血を注ぎました。
江戸時代以前は男性のものであったお茶の道は、現在8割が女性ですが、それは八重が女性の間に茶の道を広めたことが大きいと言われています。

実は、会津はお茶の文化が強く根付いている土地なのです。
会津は鎌倉時代、源頼朝による奥州藤原氏の征伐で功のあった佐原義連によって、武家による本格的な統治が始まります。
その佐原氏から分家した葦名氏は、小田山や向羽黒山城に拠点を置き、実に400年にわたって会津を支配してきたのです。
その中でも傑出しているのが、16代目の葦名盛氏。
この盛氏が現在の会津美里町に7年の月日をかけて築城した向羽黒山城には、御茶屋場曲輪と呼ばれる曲輪があり、そこで盛氏は盛大な茶会を開いていたといわれています。
御茶屋場曲輪は非常に眺めの良い場所にあり、会津美里町を一望できます。

会津とお茶と八重 現在でも向羽黒山城跡は、公園として整備されており、毎年5月の最終日曜日にお茶会が開かれています。
またその後に会津に入封した蒲生氏郷は、文化人として知られ、千利休の弟子でした。
その弟子の中で特に傑出した7人を「利休七哲」と呼びますが、氏郷はその筆頭として名が挙げられます。
利休七哲には他に、細川忠興や高山右近といった戦国時代を代表する文化人が揃っています。
また氏郷は千利休が自害を命じられた際、利休の息子の少庵を会津に匿っており、お茶の道が途絶えるのを防ぎました。
そのお礼に建てられたのが、現在鶴ヶ城本丸内にある「麟閣」です。
さらに八重の先祖は、保科正之の茶頭として仕えた山本道珍と言われており、道珍の次男である良永が分家して、代々砲術指南役を担ってきました。
八重が晩年、お茶に勤しんだのは、こういったお茶との縁が深い故郷・会津を思い浮かべた故なのかもしれません。

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