八重とコラム
会津女性列伝 >> 女子教育の先駆者「海老名リン」
海老名リンは、嘉永2(1849)年、会津藩士日向新助・まつ夫妻の次女として生まれます。藩の軍事奉行の子・海老名季昌と結婚しますが、夫の季昌は会津藩が京都守護職に任命された際、京都勤めとなり、さらに徳川昭武に付き添ってパリ万博へ行くことになります。季昌は1年ほど欧州を見聞して回りましたが、戻ってきてすぐに戊辰戦争が始まってしまいます。このときリンは父の看病で自宅を離れており、鶴ヶ城の入城に間に合いませんでした。高田に逃れたリンは、夫と共に籠城できなかったことを恥じ、一時は自刃も考えたと言います。
戊辰戦争が終わると、斗南へ移住。その後東京へ移り、明治21年(1888)年、キリスト教の洗礼を受けました。夫の季昌はこれには猛反対しましたが、キリスト教の男女平等の教えに感動したリンは、夫に何を言われても信仰を貫きました。この姿勢は季昌の心を動かし、最終的には季昌もキリスト教の洗礼を受けるに至ります。
リンは知り合いから幼稚園を任されたことがきっかけで幼年教育に携わるようになり、明治26(1893)年、若松幼稚園を設立。同年には会津女学校(現在の葵高等学校)を設立し、明治38(1905)年には、教育に貢献したとして市長から感謝状を送られています。
明治41(1908)年、経営権を娘に渡し、翌年死去しました。リンの葬儀は、キリスト教式で執り行われ、浄光寺に葬られました。
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