八重とコラム
会津藩士・基礎の心得「什の掟」
「ならぬことは、ならぬものです」
会津でよく聞くこの言葉。
これは会津藩士たちが子供のころに教えられていた「什の掟」の最後の一文です。
現在でもこの什の掟をもとにした「あいづっこ宣言」というものがあり、会津若松市内の子供たちは、皆すらすらと暗唱することができます。
会津藩士の子供たちは、地区ごとに「什」というグループが定められており、6歳から9歳まではこの「什」に属します。
基本的に遊びも勉強も、この「什」のグループで一緒に行うのです。
「什の掟」とは什の中のルールで、毎日最年長である什長がこれを唱和し、メンバーがきちんと守れているかどうか、確認していました。
什の掟は、7つあります。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
これに「ならぬことはならぬものです」を付け加えたものが「什の掟」でした。
子供たちの間のこととはいえ、ルールはルールなので、破れば当然、罰がありました。
一番軽い罰は、皆の前で「無念でありました」とお詫びをすること。
それより重いと、皆からのしっぺ。
さらに重いと、火鉢の上に手をかざす「火あぶり」、雪の中に埋めてしまう「雪埋め」などがありました。
最も重い罰は「絶交」。
文字通り什のメンバーから絶交されてしまい、こうなったら親と一緒に什のメンバーひとりひとりの家に謝りに行かないと許してもらえませんでした。
会津藩士の子供たちはこうして、「什」の中で、会津藩士としてふさわしい人間になるための研鑽を積んでいったのです。
「什」に属することができるのは男の子だけなので、八重がこの「什の掟」を学んでいたかどうかはわかりませんが、八重の想いや強さの基礎は、きっとここにあったに違いありません。
戊辰戦争後も、会津藩士たちが敗軍でありながら名を残すことができたのは、こういった徹底した教育の賜物だったのでしょう。
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