八重とコラム
八重と襄の結婚生活
アメリカでの文化を学んでいた襄と、生粋の会津武士の娘である八重。
ちょっと凸凹な夫婦に見えなくもないですが、2人の結婚生活というものは一体どのようなものだったのでしょうか。
同志社の資料から八重と襄の生活を垣間見ることができますので、ちょっと2人の結婚生活を覗いてみましょう。
【アメリカ文化】
襄の影響から八重と襄の生活は、主にアメリカ文化を基調としていました。
京都に残っている新島旧邸は、バルコニーのある洋風な作りで、廊下はフローリングですが、部屋は洋間と畳敷きの和室がある和洋折衷の建物です。
それに倣って、襄と八重の生活も和洋折衷。
八重は着物に帽子やブーツなどを履き、また洋装も好んで着ていたようです。
そんな八重の姿を熊本バンド(同志社の中でも熊本出身の生徒たち)は「頭と足元は洋風で、体は和風という鵺のような女がいる」と揶揄しています。
またアメリカの「レディファースト」生活のため、襄は八重にとても優しくしてくれました。
八重は夫のことを「ジョー」と呼び捨てにし、馬車などへも先に乗っていました。
しかし男尊女卑の残る明治時代では、そんな夫婦の姿はなかなか受け入れられず、八重は悪女呼ばわりされていたようです。
【甘党の夫】
襄はとっても甘党でした。
甘いものが大好きな上、料理も得意で八重にアメリカの料理などを教えていました。
ケーキやワッフルなどを作って食べることも多く、八重が実際に使っていたというワッフルベーカーも残っています。
そんな夫の影響を受けてか、結婚生活中の八重の写真は、少しふくよかですよね。
そんな襄の甘党ぶりには、八重が手を焼くこともあったようです。
家に遊びに来る同志社の生徒たちのために、八重はお菓子を買い置きしていたようなのですが、そのお菓子もいつの間にか襄が食べてしまうことがしばしばあったようです。
そのため八重は鍵付きの戸棚にお菓子を隠し、しっかりと管理をしていたとか。
ちょっと可愛らしい日常の一コマですよね。
【旅行好き】
襄と八重は非常に旅行が好きで、様々なところに旅行に出かけています。
キリスト教の説法や学校の用事、また人に会うためなどの目的が同時にあることもありますが、それ以外にもただの旅行ということも多くありました。
ざっと記録にあるだけでも、和歌山、大阪、岡山、愛媛、兵庫、宮城、北海道、東京など、とにかく日本全国を飛び回っています。
休暇のため、避暑のため、海水浴に出かけることもあったようで、襄と八重の夫婦仲の良さを垣間見れます。
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