八重とコラム

日本を揺るがす内乱・戊辰戦争.2

【戊辰戦争】

>>鳥羽伏見の戦い(1868年)

慶應4(1868)年、1月、下鳥羽で街道を封鎖していた薩摩藩兵と滝川具挙の諍いから、戦闘に発展。
伏見でも戦闘が行われますが、幕府側は3倍の兵力を有していたにも関わらず、政府側の最新兵器の前に敗北してしまいます。
また政府軍は、菊の紋が入った「錦の御旗」を掲げました。
菊の紋は天皇の紋。
つまりこれに逆らうということは、官軍にたてついた賊軍になってしまうということです。
これを見た幕府側の兵たちは、積極的に戦うことができなくなってしまい、淀や橋本などでも次々に敗走していきます。
この戦いでは多くの死傷者が出ており、新選組6番隊組長・井上源三郎や監察方の山崎烝が戦死。
また八重の弟である山本三郎も負傷した上に江戸で戦死しました。
さらに八重の兄である覚馬も、この戦いで政府軍に捕えられてしまいます。

>>江戸城無血開城(1868年)

鳥羽伏見での幕府側の敗走を知った徳川慶喜は、密かに大阪を脱出して江戸に帰還。
会津藩主・松平容保もこれに同行しました。
同時に京都では、徳川慶喜の追討が命じられ、ついに幕府は賊軍として追われる身になってしまいます。
これをきっかけにして今まで幕臣だった多くの藩が幕府を見限り、政府側に付きます。
慶喜は江戸にもどるなり謹慎し、後の処理を幕臣の勝海舟に命じます。
勝海舟は西郷隆盛と2度にわたる会談行い、江戸城を明け渡すことを条件に、徳川家の存続、恭順を示したものへの無罪放免などを要求しました。
これにより江戸城は戦わずして落ちましたが、幕府への処理を不満とする各藩などによって、関東各所で小競り合いが起きます。

>>宇都宮の戦い(1868年)

農民一揆の救援に来た政府軍は、千葉県の流山に新選組が潜伏していることを察知します。
鳥羽伏見の戦いからずっと逃亡を続けていた新選組でしたが、局長の近藤勇はここで捕えられ、板橋の刑場で処刑されてしまいます。
これに反発した副長の土方歳三は、宇都宮城に攻め入ってこれを占拠。
さらに城下を放火しながら進軍しました。
宇都宮藩は城を放棄して政府軍に助けを求め、旧幕府軍との戦いに挑みます。
戦いは一進一退を繰り返しましたが、土方の負傷により幕府側は撤退。
日光を経由して会津へと落ち延びます。

>>白河口の戦い(1868年)

慶應4(1868)年5月、会津藩と宇都宮から落ち延びてきた新撰組は藩主不在だった白河城を占拠。
これに対し、政府軍は稲荷山に幕府軍を引き付け、その隙に白河城を奪い取ります。
城を奪われた幕府軍は、白河城を取り戻そうと何度か城を攻めますが、最新装備の前にことごとく敗走。
白河方面から撤退します。

>>奥羽越列藩同盟(1868年)

会津藩主・松平容保は家督を息子に譲って隠居し、政府軍にも恭順の意を示していましたが、受け入れられませんでした。
そんな会津藩の赦免を求めようと、奥州北越の藩が「奥羽越列藩同盟」を結成。
会津藩を許してもらえるように政府軍に頼み込みこみますが、結局聞き入れられず、奥羽越列藩同盟を討伐すべく、政府軍はさらに北へと進軍してきます。

>>二本松の戦い(1868年)

慶應4(1868)年7月、白河を落とした政府軍はさらに北上。
それを迎え撃つべく、二本松藩では老兵や少年兵まで総動員しての籠城戦に臨みました。
最終的に城を包囲されての徹底抗戦となりましたが、他藩からの援軍の望みは薄く、7月29日、二本松藩は自ら城に火を放って落城しました。
二本松の戦いでは、15歳前後の少年兵たちも前線に出て戦い、戦闘中に孤立した少年兵40名は全員戦死しました。
のちに政府軍の隊長は「二本松での戦いが戊辰戦争で一番の激戦だった」と語ったそうです。

>>会津戦争(1868年)

会津戦争 慶應4(1868)年8月、雪が降る前に会津を落としてしまおうという考えから、政府軍は会津への進軍を開始します。
中山道に布陣した会津藩でしたが、政府軍は一気に母成峠を攻めてきたために、藩境はたった1日で落ちてしまいました。
政府軍はそのまま猪苗代城を落とし、十六橋を突破。
これに対して会津藩は、少年兵である白虎隊ら予備兵力をかき集めて応戦しますが、戸ノ口原で敗走。
ついに城下へと進軍され、城に籠っての籠城戦になります。
八重は、政府軍が城下に進軍してきた8月23日に、鶴ヶ城へ入城しています。
八重たちが必死に応戦したため、政府軍は城門を破ることができず、政府軍は小田山から城を砲撃する作戦に出ました。
その後、約1か月間にわたっての籠城戦が行われます。
籠城戦の最中、時代は明治なり、さらに会津の惨状をみた奥羽越列藩同盟の各藩も、徐々に降伏しはじめ、いつの間にか奥羽越列藩同盟は消滅してしまいます。
1日に浴びせられる砲弾の数は、多いときで2500発もあり、それに被弾して亡くなる方も多かったそうです。
望みのない援軍と累々と積みあがっていく遺体の山を見かねた容保は、9月22日、政府軍に降伏します。
容保は処刑を免れ、代わりに家老の萱野権兵衛が戦争責任を被って切腹しました。

>>五稜郭の戦い(1869年~1869年)

一方、徳川家海軍副総裁の榎本武揚は、艦隊の引き渡し命令に応じず、江戸を脱出。
まだ政府軍に抵抗しようという新選組や桑名藩主・松平定敬を乗せて箱館へと向かいます。
五稜郭に入場した武揚らは、蝦夷共和国という独自の国を築き、海から防衛線を敷いて、政府軍に対抗します。
雪解けを待って海から攻め入った政府軍に幕府側は敗北。
政府軍は兵站線の確保も迅速で、上陸後も幕府軍相手に勝ちを続けます。
その際に、新選組の副長だった土方歳三は銃弾を浴びて戦死。
さらに箱館奉行並・中島三郎助親子も城外の戦で亡くなると、榎本武揚は城内の混乱を収めるために、1869年5月18日、政府軍に降伏します。
ここに1年以上にわたって行われた戊辰戦争は、幕を閉じるのです。

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