八重とコラム

籠城中の八重と女性たち

慶應4(1868)年8月23日、八重は鶴ヶ城での籠城戦に挑むため、弟・三郎の衣装を身にまとい、七装式のスペンサー銃を担いで入城しました。
入城後は髪を切り、男性に交じって戦に参加するなど、女性らしからぬ行動も目立つ八重。
しかしその一方で、女性としての仕事も着々とこなしており、八重はその時の女性たちの様子を、明治時代になってから克明に語っています。
そこからは、会津の女性たちの誇りを垣間見ることができるのです。

【籠城中の女性の仕事】

籠城中の女性の仕事は、食事の準備をすること、負傷者の手当てをすること、弾丸を作ることでした。
かなりの籠城者がいるので、食事の準備がとにかく大変。
いつ砲弾が飛んでくるかもわからないので、急いで準備をしなくてはなりませんでした。
ただ炊き立てのご飯なので、熱くて火傷をする人も多く、水の中や土の上にご飯を落としてしまうこともありました。
しかしそんなご飯も捨てるどころではなく、水の中に落ちたものは御粥にして、土の上に落ちたものは、女性たちが食べていました。
降伏した後、ひとりひとりに白米のおにぎりが支給されましたが、ずっと玄米のおにぎりしか食べていなかったため、あまりにきらきらしていて不自然に思えたと、八重は言っています。

【砲弾をものともしない会津の女性】

砲弾をものともしない会津の女性 あるとき、八重は有賀千代子と一緒に兵たちのところに食事を運んでいました。
しかしその最中、八重たちの近くに砲弾が飛んできたのです。
飛んできた轟音と土煙で、八重は息もできなかったと言います。
やっと土煙が晴れたと思ったら、一緒にいた千代子の顔は土煙で真っ黒。
それは八重も一緒だったらしく、お互いに「泥人形みたいだ」と言い合って、大笑いしたそうです。
しかし運んでいた食事は、その土煙で蟻塚のようになってしまい、八重はがっかりしてしまいました。
当時の砲弾は、よく漫画などで見かけるような導線がついており、それについた火が火薬に到達しなければ、爆発しませんでした。
八重はそれを知っていたので、女性たちに水につけた着物で飛んできた砲弾の火を消すようにアドバイスをし、女性たちは自ら砲弾に飛びかかっていきました。
砲弾が飛んでくると、男性はびっくりして竦んでしまったようですが、女性は平気で洗濯をしていたという話もあり、会津の女性の度胸の強さが伺えます。

【逃亡者はひとりもなし】

政府軍は籠城戦の際、鶴ヶ城の南口をわざとあけておきました。
理由は、城内からの逃亡者を逃がすためです。
逃亡者は籠城戦の内部事情を知る貴重な存在ですので、政府軍は「逃げるなら逃げろ」と言わんばかりに、そこだけぽっかり明けておいたのです。
籠城中の城の中はとにかく酷い有様で、女性は皆着の身着のまま、お風呂にも入らず、ろくに食事も取らず、昼も夜も働きづめ。
それにも拘わらず、城内からの逃亡者はひとりもいませんでした。
今まで高禄を食んでいた家の女性たちも、皆飢えや労を厭わず仕事をしたので、八重はとにかく感心していました。

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