八重と歴史

会津戦争

慶應4(1868)年、戊辰戦争が勃発。1月に京都の鳥羽伏見で起こった戦いで、八重の弟である三郎は命を落としてしまい、兄の覚馬は政府軍の捕虜になってしまいました。
会津の実家に帰ってきたのは、三郎の来ていた衣服のみ。
八重はそれを見て、弟の仇討ちを決意しました。

会津戦争政府軍が会津に迫ってくるのを知った八重は、鳥羽伏見から返ってきた弟の衣装を身にまとい、七装式のスペンサー銃を担いで鶴ヶ城に入場。
「自分は三郎なのだ」という心持ちで籠城戦に参加し、得意の鉄砲を使って男性と一緒に戦いました。
また他の女性たちと同じように、食事の準備をしたりけが人の手当てをしたりと、女性としての仕事も積極的に行っていました。
しかし八重の奮戦もむなしく、1868年9月22日、会津藩は政府軍に降伏。
八重は、鶴ヶ城三の丸にあった雑物蔵に、和歌を刻みました。

「あすの夜は 何処の誰か眺むらん なれし御城に 残す月影」

八重の会津に対する万感の想いが読み取れます。

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