八重とコラム

会津の偉人たち >> 会津の名家老「田中玄宰」

会津の名家老と呼ばれる人物。寛延元(1748)年、代々会津藩の家老を務めてきた田中家に生まれますが、父の玄興が早くに亡くなったため、わずか13歳にして家督を継ぐ身になります。玄宰は少年のころから非凡の才を発揮しており、人に聞いてわからないことは自分の納得がいくまで調べ、実践していました。幌をもらった時には、徹底して幌のことを調べ、周囲を驚かせたと言います。

田中玄宰 天明元(1781)年、玄宰は家老になりますが、一度退き、天明5(1785)年、家老職に復帰。当時の会津藩は非常に財政難で、かなりの借金がありました。玄宰はこの借金を返済していくために、会津藩の改革に乗り出します。まずは様々な書物を調べて経済や軍事面についての研究をし、藩政改革が成功した熊本藩に学んで改革に取り組みました。

玄宰は、武備の充実、学校の拡大・文武の道の講究、人材の登用、節約、刑罰の法を定める、上下の身分を明らかにする、賞罰を定める、村々の支配と風俗を正すという8つの項目について取組み、さらに今まで月ごとに家老が監督していた藩政を、軍事、庶民、財政、裁判の4つに分けて、それぞれが担当する形をとりました。また産業面では技術の上昇に取り組み、京都から蒔絵師や織師、染師などを招いて、技術を学ばせました。さらに酒造面では、大阪から杜氏を招いて酒造りを学ばせ、藩直営の酒造「清美川」作り、江戸などで売り出しました。漆木の栽培も奨励し、漆の実から採れる蝋は会津蝋燭の質の良さを全国に示しました。また教育面にも力を入れ、特に藩校「日新館」は全国でもトップクラスの藩校として名を馳せていました。
玄宰は、文化5(1808)年、病没します。玄宰は「鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めてほしい」と遺言し、玄宰の墓は遺言通り、小田山の山頂に建てられました。

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