八重とコラム

日本を揺るがす内乱・戊辰戦争.1

八重が鶴ヶ城に籠城して戦った会津戦争。
ご存知、戊辰戦争と呼ばれる日本を真っ二つに分けた内乱の一部です。
新しい世の中を作ろうとする新政府軍と、幕府の世を守り通そうとした旧幕府軍の戦い。
知っての通り、この戦いに勝ったのは新政府軍。
会津藩は旧幕府軍として戦に参加し、敗戦を喫して長く辛酸を舐めることになるのです。
では、八重も戦った戊辰戦争は一体どんなものだったのでしょうか。
どんな経緯があって起こり、どんな場所で戦い、どんな結末を迎えたのでしょうか。

【戊辰戦争までの経緯】

>>黒船来航(1853年)

マシュー・ペリー 嘉永6(1853)年、浦賀沖に鉄の艦隊がやってきます。
所謂「黒船来航」です。
黒船の提督は、マシュー・ペリー。
ペリーはアメリカが船の給油をする中継地点として、日本が重要だと考えており、ずっと外国を受けいれずに鎖国体制を敷いていた日本に対し開国を要求します。
これに対し、日本の外交官であった林復斎は、アメリカの提示した静岡の下田と北海道の函館を開港するという条件に了承。
日米和親条約を結びます。
こうして200年にわたった日本の鎖国体制は、崩壊することになったのです。

>>安政の大獄(1858年~1859年)

アメリカ領事のハリスは、さらに神奈川、長崎、新潟、神戸の4港を開港するように日本に迫ります。
ハリスは大老であった井伊直弼に対し、イギリスやフランスの危険性について説き、これに危機感を感じた直弼は、天皇の許可を得ずに勝手に日米修好通商条約を結んでしまいます。
この日米修好通商条約は、領事裁判権を認め、関税自主権がないという不平等なもので、この勝手なやり方に反発するものも多くいました。
水戸藩の徳川斉昭はこの条約の締結を知り、定式ではない日に江戸城に参内して直弼を諌めました。
直弼は「政局を乱した」として、斉昭とその息子たちを蟄居処分にしてしまいます。
これを皮切りにして、吉田松陰や橋本佐内など、条約の締結に反発した尊王攘夷派を一気に処罰。
処刑や追放、蟄居処分を受けたものは、100人以上に及びました。

>>桜田門外の変(1860年)

万延(1860)年、藩主・徳川斉昭の蟄居に怒った水戸の脱藩浪士たちは、江戸城・桜田門外で、江戸城に登城する途中だった井伊直弼を殺害。
有名な「桜田門外の変」です。
これにより、御三家のひとつである水戸藩と幕府の仲が険悪になってしまいますが、この仲裁をしたのが、会津藩主・松平容保であると言われています。
この桜田門外の変は、260年にわたる天下を築いてきた徳川幕府の力が弱まってきていることを世に証明してしまいます。

>>京都守護職任命(1862年)

桜田門外の変から、京都には強行的な攘夷派が入ってきて暴威を奮い、治安は乱れに乱れていました。
そこで京都の治安を守るために「京都守護職」が設置されます。
いわば京都の警察のようなものです。
しかしこの時代、どこの藩も基本的に財政難でした。
手当金が出るとは言え、わざわざ荒れた京都までお金をかけて行きたいとは思いません。
会津藩内でも「政局に深くかかわることになってしまうので、やめた方がいい」という意見が多く出ましたが、藩祖・保科正之が定めた家訓「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず(幕府には忠勤を尽くしなさい。他の藩がそうだったからといって、会津もそれに倣うことはしてはならない)」という文に従って、京都守護職を引き受けることになります。

>>八月十八日の政変(1863年)

会津藩は京都守護職として、京都を荒らす不逞な輩を取り締まっていました。
この頃の日本は、外国を排除し天皇主体の政治を行っていこうとする「尊王攘夷派」と、幕府と公家が協力して政治を行っていくべきだとする「公武合体派」に分かれていました。
会津藩は公武合体派として、尊王攘夷派の中でも武力行為でことを収めようとする強硬派と戦っていたのです。
あるとき公武合体派であった薩摩藩が、重要な情報をつかんできます。
それは一部の公家たちが攘夷派と協力して、攘夷の徹底を天皇に奏上し、それが受けれられない場合は武力行使をするというものでした。
これを聞いた天皇は、攘夷派とそれに協力した公家の討伐を会津藩に命じ、主に攘夷派だった長州藩士たちと7人の公家を京都から追い出しました。

>>池田屋事件(1864年)

池田屋事件 京都から追い出された攘夷派は、密かに京都大火の準備を進めていました。
京都大火とは、京都市内で火事を起こし、その隙に乗じて一ツ橋慶喜と松平容保を暗殺。
京都から天皇をさらっていこうとする計画でした。
しかしこの京都大火は、当時会津藩のお抱え部隊となっていた新選組によって察知され、池田屋で攘夷派の会合が行われていたところを新選組が襲撃。
攘夷派の9名を討ち取ることに成功します。

>>蛤御門の変(1864年)

八月十八日の政変以来、長州藩主・毛利敬親と定広親子は謹慎処分になっていました。
池田屋事件をきっかけに攘夷派の怒りが爆発し、藩主親子の謹慎解除を求めて長州藩は京都に進軍。
御所の蛤御門付近で、会津藩と戦闘になります。
御所内に侵入するところまで行きますが、薩摩藩の活躍によって長州藩は撤退。
進軍の際、長州藩は御所に向けて発砲したことで朝敵とみなされ、賊軍として討伐されることになってしまいます。
慶應元(1864)年、幕府は第一次長州征伐を行い、蛤御門の変で責任があった者を切腹に追い込んだだけで、事態は収拾します。

>>薩長同盟(1866年)

長州藩内では、当時改革派と保守派に分かれていました。
改革派であった高杉晋作は、奇兵隊を結成してクーデターを起こし、藩内での実権を握ります。
改革派は下関戦争でイギリスと戦い、外国の強さを身に沁みてわかっていました。
そのため、攘夷ではなく外国と協力して日本を強くしていくべきという考え方で、以降長州藩は攘夷派の態度を一変させて、イギリスと協力し軍備を強化していきます。
同じ時期、薩摩藩も生麦事件(藩の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が無礼討ちした事件)の報復攻撃をイギリスから受けており、外国の強さを知っていました。
薩摩藩も外国と対抗するよりは、外国と協力していけないかと考えるようになります。
そこに土佐の脱藩浪士である坂本龍馬が仲介に入り、薩長同盟が成立します。

>>大政奉還(1867年)

慶應2(1866)年天皇によって、2度目の長州藩討伐の命が下りましたが、イギリスと協力して最新の武器を揃えていた長州藩に幕府側はことごとく敗北。
ちょうどそのとき14代将軍の家茂が亡くなり、続いて孝明天皇も崩御してしまいます。
孝明天皇に代わって天皇の座に就いたのは、まだ15歳の少年でした。
土佐藩はこれを機に、今まで幕府にあった政権を天皇に返すように迫ります。
15代将軍となった徳川慶喜は、これを了承。
これが有名な「大政奉還」です。
それに続いて「王政復古の大号令」が発令され、幕府・将軍職は廃止。
同時に京都守護職も廃止となります。
しかし大政奉還に納得のいかない各藩が兵を挙げ、ついに武力闘争に発展します。

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