新島襄

新島襄

八重の二番目の夫。天保14(1843)年、江戸の安中藩屋敷にて生まれます。襄の家は女の子ばかりで、やっと生まれた男の子だったので、父親であった民治は「しめた!」と襄の出生を大変喜んだそうです。そのため襄は「七五三太(しめた)」と名付けられ、幼年時代を過ごしました。

子供の頃の襄は、非常に活発な少年で、外でよく遊んでいました。しかし足を踏み外して、10針以上縫う大けがをこめかみに負ってしまいます。この傷を見られるのが嫌で、今まで活発だった襄は怪我をきっかけに一気に消極的になり、外に出て遊ぶことを躊躇うようになってしまいます。これを見た母のとみは、襄を塾に通わせて外の世界を学ばせますが、下級武士の家に生まれた襄に、身分制度というものに対しての疑問を抱かせるようになります。

青年になった襄は友人から借りた本の中で、自由の国・アメリカについて知り、22歳の時、ついにアメリカに向けて密航。ワイルド・ローヴァー号の船主だったハーディー夫妻の援助で、フィリップス・アカデミーに入学し、民主主義やキリスト教について学び、自身もキリスト教の洗礼を受けます。

アーモスト大学、アンドーヴァー神学校を卒業して日本に戻った襄は、キリスト教を広めるために大阪での学校の設立を目指しますが失敗。その後京都に赴いたときに覚馬と出会い、槙村正直参事官の勧めもあって、八重と結婚。八重や覚馬と協力して、念願の学校を京都に設立。それが現在の同志社です。

八重と襄は大変仲のいい夫婦で、一緒に旅行に行くこともしばしばあったそうです。
襄は明治23(1890)年、47歳でこの世を去ります。最後は、八重に看取られながら息を引き取りました。

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