川崎尚之助

川崎尚之助

八重の最初の夫。但馬出石藩に仕える医家の家系に生まれ、蘭学と舎密術(今でいう理化学)を身に付けた洋学者でした。覚馬がその才を見抜き、日新館の教授として取り上げたことから、山本家に居候するようになりました。

慶應元(1865)年頃、八重と結婚。しかし慶應4(1868)年、戊辰戦争が勃発すると同時に離縁。離縁の理由としては「他藩の人間であった尚之助を巻き込まないためだった」と言われていますが、尚之助が会津藩士だとしている記録なども出てきているので、理由はいまだ謎のままです。

離縁はしましたが、籠城戦の最中に籠城していた八重と再会。一緒に大砲隊の指揮をとったり、弾丸作りに励むなど、共に苦しい籠城戦を戦い抜きました。 しかし籠城戦の最中に、尚之助は行方不明になってしまいます。一時期江戸にいたという記録があるようですが、何をやっていたのかはよくわかっていません。その後、他の会津藩士と共に斗南藩に行き、斗南藩の困窮を何とか救おうと奮闘していたようです。

廃藩置県となり、斗南藩が解体されると東京に移住。しかしそこでの生活は苦しく、明治8(1875)年、わずか39歳という若さで、この世を去ってしまいます。

尚之助に関しては非常に資料が少なく、未だ詳しいことがわかっていません。そのため上記以外にも、様々な説があります。

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