佐川官兵衛

佐川官兵衛

会津藩家老。天保2(1831)年、会津藩士・佐川直道の子として生まれます。性格は直情型でしたが、人情があり、多くの藩士たちに慕われていました。会津藩主・松平容保も官兵衛には特に目をかけており、京都日新館の学校奉行や、容保が外出する際の警護を担当する「別選組」の隊長も務めていました。

その強さは折り紙つきで、慶應4(1868)年の鳥羽伏見の戦いの際には、刀が折れて、目を負傷しても平然と指揮を執っていたと言われています。さらに退却の際も堂々と傘をさして退却し、その豪胆さから長州藩や薩摩藩は彼のことを「鬼の官兵衛」「鬼佐川」と呼んで恐れたと言います。

鳥羽伏見の戦いで敗走すると、越後を経て会津へ。会津での戦では城外出撃への総指揮官を命じられ、住吉河原の戦いではゲリラ戦を展開して勝利をあげています。会津戦争後は東京に謹慎し、松平家の家名復興が許されると、斗南藩に移り住んで斗南の開拓に専念します。

明治7(1874)年、川路利良警視長に乞われ、警視庁に入庁。その際に官兵衛を慕っている旧会津藩士300名がついてきたと言います。

明治10(1877)年の西南戦争において出陣し、熊本県の阿蘇で被弾し戦死。地元民にも優しく、兵による一切の略奪などを許さなかったので親しみを込めて「鬼さま」と呼ばれていました。

現在鶴ヶ城南口付近に建っている顕彰碑は、阿蘇から寄贈された石で造られたものです。

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