斎藤一

斎藤一

新選組三番隊組長。新選組の中でも一、二を争う剣の使い手と言われ、新選組内では剣術師範を務めていました。二番隊組長であり、同じく新選組最強の剣の使い手だったと言われる永倉新八が「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語るほどだったそうです。

江戸にいたころに近藤勇の試衛館道場に出入りしていましたが、19歳の時に江戸で旗本を斬る事件を起こしてしまい、父の友人であった京都の道場に身を隠し、そこで師範代を務めていたと言われています。京都で試衛館仲間と再会し、新選組に入隊。新選組の中では主にスパイ等に対しての粛清役を務めたり、伊東甲子太郎が御陵衛士を組んだ際には間者として潜入したり、新選組の裏の部分の仕事を引き受けていたとされています。

戊辰戦争が起こると、山口次郎と名乗って、会津での戦いに参加。土方歳三や大鳥圭介らが会津を去っても、会津に残って戦い続けました。降伏後も新政府軍に下ることを潔しとせず、松平容保が使者を派遣して降伏するように説得し、ようやく降伏に応じたと言われています。

その後は斗南藩士として、斗南に移り住み、そこで八重の友人である高木時尾と結婚。この結婚の仲介人は、松平容保であったと言われています。廃藩置県後は警視庁に勤め、警部にまで昇進。明治24(1891)年の退職後は、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)守衛兼剣術師範、山川大蔵の姉・二葉が生徒取締を務めた東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務め、慎ましい生活を送っていたようです。

大正4(1915)年、新選組最後の生き残りとして死去します。

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