秋月悌次郎

秋月悌次郎

会津藩公用方。文政(1824)年、丸山胤道の次男として生まれます。次男だった悌次郎は分家して秋月を名乗り、日新館でも秀才と呼ばれるほどの頭の良さで、江戸にも遊学。江戸では昌平黌や私塾など多くの場所で知識を磨き、昌平黌では書生寮の舎長も務めていました。また各地を巡って見聞を広げるなど、非常に学習意欲にあふれた人物として知られています。

会津藩が京都守護職に任じられると、容保に従って京都へ。そこで諸国を旅した時の経験を生かして、公用方として活躍。薩摩藩と会津藩を結び、八月十八日の政変で長州藩や過激攘夷派の公家を京都から追い出しました。しかし慶應元(1865)年、一時蝦夷代官に左遷。活躍する悌次郎に対する周囲の妬みが原因と言われています。

慶應4(1868)年、戊辰戦争が勃発。自刃した神保修理の後継として軍事奉行についた悌次郎でしたが、裏方での支援が多く、実際に戦場に立って戦うことは少なかったようです。降伏の際には米沢藩に出向いて仲介を頼み、政府軍へ降伏を申し出ました。

戊辰戦争後は猪苗代に謹慎となりますが、明治5(1872)年に赦免されると、東京大学予備門の教諭になります。さらに明治23(1890)年には、熊本第五高等中学校の教師として教鞭をとり、その講義は多くの生徒に人気があったと言われています。

同じ学校の教師であった小泉八雲は、悌次郎のことを「まるで神のような人だ」と評しています。

明治33(1900)年、74歳で死去。東京都港区の青山霊園に墓があります。

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