神保修理

神保修理

会津藩軍事奉行添役。天保5(1834)年、会津藩家老・神保内蔵助の長男として生まれます。幼いころから非凡の才を見せており、容姿は閑雅、その頭の良さから日新館では「秀才」と呼ばれていました。会津藩主・松平容保からも特に目をかけられており、京都守護職に任じられた際には、容保に随行して京都へ行き、さらに他藩との窓口である公用方を任されています。

慶應2(1866)年、修理は容保の命で、洋式の練兵などを勉強するために長崎へ派遣されます。そこで日本という1つの国だけではなく、世界を広く見据える意識を強くし、会津藩の軍制改革にもこれが大いに生かされることになります。

慶應3(1867)年、大政奉還によって幕府は事実上崩壊。修理も長崎から急遽大阪に戻ります。洋式の練兵技術や武器などが日本より非常に優れていることを知っていた修理は、徳川慶喜に対して恭順するように進言しますが、佐川官兵衛ら主戦派の藩士たちと激しく対立。幕府側が鳥羽伏見の戦いで負けると、その責任はすべて軍事奉行である修理に降りかかってきました。しかも慶喜や容保が大阪から黙って脱出してしまったことに対し「修理が恭順を説いたせいだ」という意見が上がり、さらに公用方で他藩との交流があったため「長州藩と通じていたのではないか」という噂まで立つ始末でした。

修理は和田倉上屋敷に幽閉されたのち、三田下屋敷に移送。容保に弁明することも許されず、慶応4(1868)年2月22日「これが偽りの命だとわかっていても、従うのが臣というものだろう」と、命じられるままに自刃しました。

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