西郷頼母

西郷頼母

会津藩家老。西郷家は藩祖・保科正之と分家した家柄で、大体筆頭家老を務める名門でした。頼母も祖先の例に漏れず、文久2(1862)年、家老に就任。留守家老として藩主不在の会津を預かる身でした。

頼母が家老になった同年、会津に京都守護職就任への依頼が舞い込みます。これを知った頼母は、同じく家老である田中土佐とともに、江戸の会津藩邸にいる会津藩主・松平容保の下に急行し「京都守護職を引き受けるのは、薪を背負って火を救うようなものだ」と、これを辞するように説得します。しかし容保は「保科正之公の仰る家訓がある。今、幕府の危機にあってこれを救わないのは、私の意志ではない」と述べ、同席した田中土佐、横山主税などは、この若き主君の志に感銘を受けて、最終的に京都守護職を引き受けるに至ります。

しかし当時は財政難。幕府のためとはいえ、そのために会津を危機に追い込むことは、頼母にはどうしても納得がいきませんでした。翌年、頼母は再度容保の説得を試みますが、容保の決意は固く失敗。それどころか、容保は頼母を煙たがって遠ざけるようになり、頼母は病気と称して家老職を辞してしまいます。それから戊辰戦争が始まるまでの間、頼母は5年ほど隠居生活を送ります。

慶應4(1868)年、戊辰戦争が勃発し、鳥羽伏見の戦いで幕府側が敗北すると、家老に復職。頼母は政府軍への恭順を容保に進言しますが、聞き入れられず、白河口の総督を命じられて出陣します。白河口の戦いで敗北すると、会津に戻って、再度政府軍へ恭順するよう容保を説得。しかしここでも聞き入れられず、ついに蟄居処分を受けてしまいます。

8月22日、頼母は蟄居の命を破って息子である吉十郎とともに登城し、容保を再度説得にかかります。この頃、頼母と意見が衝突していた梶原平馬によって頼母を暗殺する動きがあり、これを察した容保は、越後口から撤退してくる部隊への使者として頼母と吉十郎を派遣。城から出して、その命を助けます。また城下に政府軍が進軍してきた際、頼母の家族たちは21人が屋敷で一斉に自害。これは白虎隊と並ぶ悲劇として、会津で語り継がれています。

その後は五稜郭へ行き、ここでも榎本武揚相手に、恭順を説いたと言います。戊辰戦争後は館林藩に幽閉されますが、明治3(1870)年に幽閉が解かれると、西郷姓を保科姓に改め、神社の宮司や学校の講師などになって暮らしました。容保が日光東照宮の宮司になった際には、その禰宜となっており、戊辰戦争後は容保と和解したようです。

明治36(1903)年、73歳で病没します。

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