中野竹子

中野竹子

後に「娘子隊」と呼ばれる女性のみで編成された隊の隊長格にあたる女性。嘉永3(1850)年、会津藩勘定役中野平内とこう子夫妻の長女として、江戸の屋敷で生まれました。妹の優子とともに美人姉妹として有名で、また学問にも通じ薙刀の名手でもありました。

慶應4(1868)年、容保の義姉である照姫が坂下に逃れたという情報から、照姫を守るために、竹子たちは女性のみの隊を結成。その姿は頭に白羽二重の鉢巻、女物の着物に袴を穿き、手には大小の刀に薙刀。髪をばっさりと切り、男性さながらの姿だったといいます。

結局照姫は坂下にはおらず、法界寺に宿泊。その後、家老の萱野権兵衛に出会い、従軍を申し出ますが、権兵衛は「女にまで戦わせたとあっては、会津藩はそれほどまでに疲弊しているのかと思われる」と従軍を拒否。これに対し竹子は「軍に加えて頂けないのであれば、この場で自刃します」と言い、竹子たちの覚悟を見せつけられた権兵衛は、彼女たちを衝鋒隊の隅へ編入しました。彼女の薙刀には「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」という辞世の句を刻んだ短冊がぶら下げられていたと言います。

竹子は涙橋の戦いで、敵の銃弾を眉間に受けて戦死。妹の優子は「姉の首を敵に渡すわけにはいかない」と、竹子の介錯をして、その首を持って落ち延びました。
優子たちはこの後、鶴ヶ城に入って、後方支援を担当。八重は竹子の母であるこう子と鶴ヶ城の中で会話をしていて「なぜ娘子隊に加わらなかったのか?」と聞かれ「自分は鉄砲で戦うつもりだったから」と答えています。

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