松平容保

松平容保

会津藩九代藩主で、八重の父・権八と、兄・覚馬が仕えた会津の主。美濃国高須藩主・松平義建の六男として生まれますが、弘化3(1846)年、会津藩八代藩主・容敬の養子となり、会津藩を継ぎます。品のある貴公子のような風貌で、宮中の女性たちは容保が参内してくると聞くと、そわそわして待っているほどだったそうです。また孝明天皇の信頼も厚く、蛤御門の変の際に孝明天皇から送られた宸翰と御製に、それを見ることができます。

文久2(1862)年、会津藩は幕府から京都守護職を命じられ、京都に向かいます。攘夷と称して京都を荒らす不逞浪士たちを取り締まっていた会津藩ですが、大政奉還がなるとその立場は一変。賊軍として政府軍から追われる身となってしまいます。

戊辰戦争の際、容保は鶴ヶ城に籠城して指揮を執ります。八重は籠城戦の際、子供たちとの出陣を容保に相談して止められたり、また容保の前で砲弾の仕組みなどを説明したりしていました。 籠城戦は1か月にも及びましたが、兵たちの困窮ぶりを見かねて、明治元(1868)年9月22日、ついに降伏。降伏式に臨んだ容保は「すべての責任は自分にある」と、戦争責任のすべてを背負おうとしますが、政府軍は戦争責任を家老の萱野権兵衛ひとりに負わせ、容保自身は許されました。松平家は取り潰しとなります。

誠実で豊かな才を持つ容保には、たびたび「華族に取り立ててはどうか」という話がありました。しかし「自分のために犠牲になった何千という藩士、何万というその家族のことを思えば、引き受けることはできない」と、誘いを断り続けたそうです。

戊辰戦争後は鳥取藩預かりとなり、蟄居。明治2(1869)年には家名復興が許され、長男の容大に斗南藩が与えられます。晩年は日光東照宮の宮司を務め、明治26(1893)年、59歳でこの世を去ります。

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