伊東悌次郎

伊東悌次郎

八重のお隣・伊東家の二男。安政元(1854)年、会津藩士・伊東左太夫の家に生まれ、11歳の時に日新館に入学。非常に勤勉で、性格も温和。またかなりの美少年だったそうです。八重に鉄砲を習うほか、大伯父に柔術も習っており、また馬も得意でした。

八重は悌次郎に鉄砲を教えているとき、射撃を早くするためだといって、前髪を切ってやりました。しかし母の佐久に「厳格な伊東家に無断で髪を切るとは何事です」と、いたく叱られたそうです。
悌次郎は1歳年が足りずに、本来白虎隊には入れないはずでした。しかし悌次郎はどうしても白虎隊に入りたいと父の左太夫に頼み込み、困った左太夫は、白虎隊士中二番隊隊長の日向内記に相談。内記は悌次郎の熱意を買って、生年月日を訂正し、白虎隊への入隊を許可しました。左太夫は息子に備前兼光の立派な刀を作ってやり、悌次郎も「これを持って、国と父の恩に報いてみせる」と喜び勇んで出陣していきました。

しかし政府軍の圧倒的な勢力の前に、会津は度重なる敗戦を強いられます。白虎隊士として戸ノ口原に出陣した悌次郎は、敗走して仲間たちと共に飯盛山に落ち延び、そこで城下が炎に包まれ、政府軍が城に向かって進軍していく様を見て、自刃する道を選びました。

享年はわずか15歳。八重は悌次郎を弟のように可愛がっており「あんな子供まで国のことを思っていたのかと思うと、可愛そうでならない」と語っています。

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