山本覚馬

山本覚馬

八重と17歳年の離れた兄。山本家の嫡男として、日新館では非常に優秀な成績を修め、特に武勇に優れていました。覚馬は日新館の遊学制度を利用して江戸に行き、そこで佐久間象山の塾に入って勉強します。もともと根っからの会津武士で、武術だけを磨けばいいと思っていた覚馬でしたが、象山の塾で幕臣や他藩の人々と交流し、外国の知識や文化に触れることで考えを改め、日本全体、ひいては世界全体のことを考えるような頭脳を身に着けます。

会津に帰ってきてからは、その知識を買われて日新館の教授として迎えられ、さらに軍事取調兼大砲取頭に任命されます。この頃に、同じ日新館の教授で、山本家に居候していた川崎尚之助と八重の仲を取り持って結婚の世話をします。

会津が京都守護職に任命されると、覚馬も京都勤めに。蛤御門の変で活躍した功から、公用人に取り立てられ、さらに見聞を広めるきっかけになります。この頃から眼病を患って、目が悪くなり、静かな生活を送っていました。

しかし慶應4(1868)年、鳥羽伏見の戦いが勃発。覚馬は捕らえられ、薩摩藩の捕虜になってしまいます。 捕えられた覚馬は、獄中で「管見」と呼ばれる日本の政治や経済の在り方などを起草。これが薩摩藩の目に留まり「こんなに素晴らしい人を亡くすのは惜しい」と、会津藩士という身分でありながら、かなり厚遇されました。この管見はのちに明治政府にも採用され、戊辰戦争後覚馬は、京都府顧問、初代府議会議長などの要職を歴任することになりました。この頃には目はほとんど見えなくなった上、足も悪くなっていましたが、覚馬はそれでも議会に赴いていたといいます。

京都に来た八重と襄の仲を取り持ち、さらに同志社を設立する際には、買い取っていた旧薩摩藩邸敷地を襄に破格の値段で売り渡すなど、同志社の設立にも多大に貢献。

明治25(1892)年、65歳で永眠するまで、覚馬は日本の近代化に向けて邁進し続けました。

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