山川大蔵

山川大蔵

会津藩家老。弘化2(1845)年、山川尚江・艶夫妻の長男として生まれます。父が早くなくなったため、主に祖父によって養育され、若くして家を継ぐことになります。

文久2(1862)年、会津藩が京都守護職を命じられると、会津藩主・松平容保に従って京都入り。

慶應2(1866)年、幕府は唐太境界協議のために、ロシアに使者を派遣します。大蔵もこの一向に随行して、ロシアへ。そこで世界の様々なことを見聞きし、日本の狭さやこれからの世界の行く先を知り、攘夷というものがいかに愚かなことであるかを学んだと言います。

慶應4(1868)年、戊辰戦争が勃発。大蔵は敗走兵たちをまとめて江戸に退却するための手筈を整え、さらに外国と協力した長州・薩摩藩の強さを見て、フランス式の練兵などを学びます。幕府が崩壊すると、政府軍との徹底抗戦の構えを見せ、幕府側の歩兵隊などを率いて各地を転戦。板垣退助の軍に大勝するなど、その勇名は政府軍にまで轟きました。

会津戦争の際、大蔵は日光口の防衛にあたっていましたが、24日に呼び戻されます。しかしすでに城は包囲されており、城下には政府軍の軍人があふれかえっていました。城内にも入るに入れない状況です。

そこで大蔵は一計を案じます。会津では春彼岸の時期に、獅子が町内を舞い踊る「彼岸獅子」という伝統芸能があります。大蔵はこの彼岸獅子をやっている小松集落の獅子団を呼び出し、彼らに笛を吹いて獅子を舞わせ、それを先頭にして城内への進軍を行ったのです。これには政府軍の面々も唖然。結果大蔵は、一兵も損なうことなく城への入城を果たしました。これには容保も大喜びし、彼の機知をほめたたえたと言います。

戊辰戦争後、会津が斗南藩を与えられると斗南にわたり、藩の大参事として中心的な役割を担いました。廃藩置県後しばらくは青森県に出仕していたようですが、のち陸軍裁判所に勤め、明治6(1873)年には陸軍少佐にまで昇進します。

明治13(1890)年、大佐に昇進し、のち陸軍少将貴族院議員と、会津藩士としては異例の出世を遂げます。明治31(1898)年に没します。弟の健次郎と共に残した「京都守護職始末」は、幕末の会津を知る貴重な資料となっています。

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