八重とコラム
会津の偉人たち >> 管見を形に「野澤雞一」
野澤雞一は、嘉永5(1853)年、野沢原町に生まれました。慶応2(1866)年に「人の機微を明らかにする」ということをモットーに渡部思斎が設立した「研幾堂」に入り、法律や経済などについて学んでいました。
16歳の時、雞一は蘭学を学ぶために故郷を飛び出し、長崎へと向かいます。しかし京都に立ち寄った際、蘭学に長けた山本覚馬という人が会津藩にいること、会津藩が人手不足で困っていることを聞き、一時的に会津藩士となって京都に身を寄せました。
慶應4(1868)年、戊辰戦争が勃発。鳥羽伏見の戦いの際、雞一は会津藩士だったために、覚馬と共に捕えられ、投獄されてしまいます。
彼と共に捕まった覚馬は、政府のこれからの在り方を獄中で説きました。しかし当時の覚馬は眼病を患っており、目が見えずに文字が書けない状態でした。そこで覚馬の表した「管見」を口述筆記したのが、雞一だったのです。その素晴らしさのために、覚馬は会津藩士でありながら、かなり厚遇されたと言います。
明治時代に釈放された雞一は、明治3(1870)年に大阪開成所、明治4(1871)年には脩文館に入学し、英語や法律などを学びます。さらに当時、脩文館の教頭だった星亨と親しくなり、共に「英国法律全書」を翻訳して、イギリスの法律を学ぶ日本の政治家や学生などのバイブルとして活用されました。
明治7(1874)年、弁護士に転身。翌年には、新潟税関長代理に任命されます。さらにアメリカ・エール大学に進学して法律を学び、帰国後は弁護活動も積極的に行いました。明治22(1889)年には、さらに知識を深めるため、ニューヘーベン法科大学にも進学。その後、神戸地裁判事を経て公証人となり、銀座に公証人役場を設けるなど、日本の法整備やその確立において多大な貢献をしました。
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