八重と歴史
京都時代
戊辰戦争後、八重は母と姪と共に、兄を頼って京都へ赴きます。
明治8(1875)年、覚馬と交流のあった新島襄と出会い、婚約。
同年に、襄と覚馬と共に同志社英学校を開校し、これが現在の同志社大学の基礎となっています。
翌年には、J.Dデヴィスから洗礼を受けてクリスチャンとなり、キリスト教式の結婚式を行いました。
日本人クリスチャンのキリスト教式結婚式は、これが京都初だといわれています。
襄はアメリカ帰りの帰国子女だったために、八重も襄に倣って西洋文化を取り入れた生活をしていました。
また夫婦仲も大変よく、2人でよく旅行にも出かけています。
明治23(1890)年に、襄が亡くなると、彼の意志を継いで同志社の発展と経営に努めました。
社会事業などへの貢献も積極的に行い、日本赤十字社の社員として働き、明治28(1895)年の日清戦争、明治38(1905)年の日露戦争においては、篤志看護婦として従軍しています。
同志社の、特に女学生を大切にしていて、晩年は「新島のおばあちゃん」と呼ばれて親しまれていたようです。
昭和7(1932)年、急性胆のう炎のため、87歳で死去。
現在は京都の同志社墓地で、襄の隣に眠っています。
次頁 : 少女時代について
八重と人々
八重と時代
八重とコラム
- 会津藩士・基礎の心得「什の掟」
- 日本トップの実力・会津藩校日新館
- 日本を揺るがす内乱・戊辰戦争.1
- 日本を揺るがす内乱・戊辰戦争.2
- 日本を揺るがす内乱・戊辰戦争.3
- 籠城中の八重と女性たち
- 会津とお茶と八重
- 襄が八重を妻に選んだ意外な理由
- 八重と襄の結婚生活
- 老婦人同士の先陣争い
- 会津女性列伝 >> 家老の妻として「西郷千重子」
- 会津女性列伝 >> 鹿鳴館の花「大山捨松」
- 会津女性列伝 >> 女流文学者「若松賤子」
- 会津女性列伝 >> 女子教育の先駆者「海老名リン」
- 会津女性列伝 >> 悲劇の会津女性「神保雪子」
- 会津女性列伝 >> 会津の厳しい女傑「山川艶」
- 会津女性列伝 >> 社会福祉の母「瓜生岩子」
- 会津の偉人たち >> 鶴ヶ城を築いた人「蒲生氏郷」
- 会津の偉人たち >> 会津藩の藩祖「保科正之」
- 会津の偉人たち >> 会津の名家老「田中玄宰」
- 会津の偉人たち >> 管見を形に「野澤雞一」