八重と歴史
少女時代
新島八重は、弘化2(1845)年、会津藩砲術師範であった山本権八と佐久の娘(6人兄弟の3女)として生まれました。
幼いころから男勝りのお転婆な少女で、石投げなどの遊びも男の子と同じようにやり、13歳の時には四斗俵(約60キロ)を肩まで4回上げ下げすることができました。
会津武士の家に生まれた八重は、節義を重んじて、粗衣粗食を常とし、機織りなどに励んでいました。
縫い物などの針仕事に関しては、ご近所である高木家の祖母に習っていたそうです。
しかし兄や父の職業柄か、砲術にも興味を持ち、兄・覚馬に洋式砲術を習って、人に教えられるほどの知識と技術も持っていました。
そのため隣に住む少年の伊東悌次郎に、鉄砲を教えることもしばしばありました。
悌次郎は、鉄砲を撃つ際にいつも目を瞑ってしまうので、八重はそのたびに「臆病!」と叱り飛ばしていたといいます。
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八重と人々
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