神保内蔵助邸(大河ドラマ館跡)

①神保内蔵助邸(大河ドラマ館跡)

大河ドラマ館跡の場所には、神保内蔵助の屋敷がありました。

神保内蔵助

1000石取の会津藩家老。
禁門の変では真木和泉を追撃し、自刃に追い込みました。
会津戦争では甲賀町口郭門で戦いますが、郭門を破られ、その責任をとって田中土佐と共に土屋一庵邸で自刃しました。

神保修理

内蔵助の長男で、会津藩軍事奉行添役。
会津藩主・松平容保から特に目を掛けられていた秀才で、会津藩の軍制改革に尽力しました。
しかし鳥羽伏見の戦いの責任を負わされ、切腹させられてしまいます。

神保雪子

井上丘隅の娘で、修理の妻。
会津戦争の際には娘子隊に所属して、城下での戦いに参加。
敵に捕まって自刃したと言われています。

北原雅長

内蔵助の二男で、北原匡の下へ養子に出ました。
会津戦争の際には母成峠で参謀役を務め、のち長崎初代市長となります。
「会津は逆族ではない」と主張した「七年史」を著したことにより、不敬罪で捕らえられ、静岡の浜松で死去します。